〔IV〕『南部紫根染・南部茜染復興年譜』

藤田謙編・「南部紫之由来」より抜粋

【註:囲みの部分 及 昭和12年以降は二代目勉が加筆した。】


(1)南部紫根染研究所時代 大正5(1916)年〜昭和8(1933)年
(2)草紫堂主 独立後 昭和8(1933)年〜

(2)草紫堂主 独立後

昭和8(1933)年5月
 盛岡市紺屋町130番地に工場並に店舗、草紫堂を開き、紫根染の製造販売をなす。
 独立に際し、当時の岩手県知事石黒英彦氏の紹介も空しく、旧岩手銀行、旧盛岡銀行を引き継いだ、半官半民の岩手殖産銀行【現岩手銀行】からの融資も断られ、二人の友人のご好意によって無利子、無担保で私財による1,000円の融資を受けて開業した。

 石黒知事からは開店に際し、『清明為藤田君英彦』の揮毫額を贈られている。又開店の前日の朝早く、突然閉っているカーテンを潜り抜け、盛岡市長大矢馬太郎氏が、「ヤー、開店は明日だったか」とおっしゃりながら『春夏冬五合』と書かれた色紙を持って御来店になられた。当時小学3年生だった私が、「ずいぶん市長さんもあわてんぼうだね」と言うと、父は諭す様に「イヤ、市長さんは"開店の前日に暴れ馬が飛び込んで来ると、その店は繁昌する"との故事に則っとっていらしたので、"春夏冬"とは"秋無い"つまり"商い、"五合"は"半升"つまり"繁盛"と言う意味なんだよ」と教えられたことを、今でも鮮明に覚えている。

■父が自分で書き、自分で彫り、自分で塗って仕上げた木彫りの看板で、何事も人任せに出来ない、工夫しながら自分でやってしまう性格でした。この仕事に就いてからも、特許2つ、実用新案1つを取りましたが、特許庁に提出する書類も全部自分で工夫しながら書いたことを1つの自慢にしておりました。
昭和9(1934)年4月
 商工省第21回工芸展覧会に『鯉魚文紫根染卓布掛』を出品し、褒状を受く。
 この展覧会は、こののち間もなく純粋美術の日展と合併し、日展第四部として現在に続いている。
 以後、経済的、時間的制約から作家活動は断念し、国内産業展、博覧会等では、中小企業庁長官賞の他、1等4回、2等12回、3等、褒状20数回、受賞している。研究所時代は、毎日曜日毎に冬の寒いさ中でも、大きなキャンバスを担いで、降り積もった雪をかき分けても山王山の上に登って、好きな絵筆を楽しんでいたのに、独立後はそれさえ出来ず、ごく晩年になって次のような歌を残している。

 "たまさかに 彩筆(ふで)とらんとすれば 悲しもし
    絵具かたまりて 蓋やとれずも"

昭和11(1936)年11月
 岩手県より秩父宮殿下献上品として、羽二重紫根染並に茜染の謹製方を命ぜられる。
昭和12(1937)年〜26・27(1952)年頃【絹製品の統制が解ける迄】
 日支事変直前の頃、東京・日本橋高島屋で開かれた岩手県物産展に、新作100柄の南部紫根染、茜染の製品を出品、特別に一室を提供されて、陳列し、大好評を博した。
 父謙は、当時の高島屋店長、古瀬さんから特別に赤坂の料亭に招待され、全品買い取って戴いた他、戦時統制下、技術保存として配給になった品物も、統制が解ける迄全品買い取って戴くことが出来、戦中戦后の苦しい時代を乗り切ることが出来た。

 昭和20(1945)年4月14日(?)のアメリカ大統領死去の報復爆撃は赤羽一帯を襲い、丁度その時筆者は海軍技術見習尉官として千葉県稻毛にあった軍需省アルコール燃料研究所に研修のため徳山から上京し、中野にある親戚の家に寄留して居たが、翌朝夜が明けてから、父と姉が大きなリュックを背負って眞黒な顔をして辿り着き、リュックの中身は高島屋に納める品物で蕨駅から線路づたいに歩いて来たとのこと、この時は既に日本橋一帯は焼野ヶ原となって居たが、こんな時期にでも何も言はずに黙って引き取ってもらっていた。戦後復員してから父の代理として高島屋を訪れた時、呉服部長の鈴木さんから「京都の技術保存の業者のものでも委託販売で、全品買い取りをしているのは、お宅だけだ」とのお話も伺っている。

昭和20(1945)年12月
 戦後の食糧危機を救うため、全国の手工芸品を東京に集め、ニューヨークの一流デパートのデザイナー、バーチエ大尉【女性】により輸出向工芸品の選定会があった時、染織部門で出品数7〜800点位の内、7〜80点位選ばれた中に、草紫堂の"南部紫根染・南部茜根染"染め分けの壁掛及テーブル掛2点が選ばれニューヨークに展示された。
 以後、イギリス・フランス・ドイツ始め、パキスタン・エジプト等から17〜8通もの引合いが送られて来、ドイツからは織物と間違えたのか東京オリンピック直前まで、英語とドイツ語で書かれた分厚い織機のカタログが毎年送られて来た。しかしいづれも引き合いの数量、單位が余りにも大き過ぎて、要望にお答えすることが出来ず残念であった。
昭和33(1958)年〜平成4(1992)年
●昭和33(1958)年4月 初代謙、"黄綬褒賞"受賞。
●昭和40(1965)年11月 初代謙、"勲六等単光旭日章"受賞。
■勲六等単光旭日章を受賞した時、宮内省の前で、父と母が記念に撮った写真です。
■昭和44(1969)年、店舗改築

●平成4(1992)年11月 二代目 勉"黄綬褒賞"受賞。

昭和45(1970)年10月
 岩手国体ご臨席のため御来盛の砌、天皇・皇后両陛下に、鉄器の鈴木盛久氏【後無形文化財指定】、漆器の佐々木誠氏【秀衛塗】、仝古関六平氏【後岩手工芸美術協会々長】等と共に、工程実演並に作品の天・台覧の栄を賜る。
昭和45(1970)年11月
 岩手国体後に開催された、パラリンピックご臨席のため御来県になられた皇太子同妃両殿下より、御出発に先立ち天皇・皇后両陛下に御挨拶のため参内された際、皇后陛下より『岩手に行ったなら紫根染を見て来る様に』とのお言葉があったとのことで、一関にお着きになられて直ぐ県の係の方に申し出られ、連絡を受けて急遽お宿舎の盛岡グランドホテルの一室に紫根染・茜根染の資料並に作品を特別展示し、記者会見を済まされてすべての公式行事終了後の午後8時半から9時半過ぎまでの1時間余に亘り、工程その他の御説明を申し上げる光栄に浴した。
 その際、紀宮様御用として、"南部茜根絞染瑞雲文様"着尺地一巻、お買上げの栄を賜り、尚美智子妃殿下より、秩父宮妃殿下への御返礼の手作りの文箱にお貼りになりたいとのお言葉で、僅か1m程の小切れであったが、昭和11年秩父宮様に"夫婦のお布団地"として献上申し上げたのと同柄の"菊花文茜根絞染"の小切れ1枚、献上申し上げた。
昭和49(1974)年5月
 第25回全国植樹祭御臨席のため天皇・皇后両陛下御来盛に際し、岩手県より献上品製作の委嘱を受け、特に"植樹文南部紫絞染絵羽着尺"を謹作し、献上申し上げた。
これが父謙の最後の作品となった。
平成5(1993)年2月
 世界アルペンスキー大会御臨席のため秋篠宮同妃両殿下御来県の砌、秋篠宮紀子妃殿下に"南部紫絞染宝相華文着尺"一巻献上の栄に浴した。
 その際、妃殿下は展示してある弊堂の参考展示品に御興味を持たれ、他の展示品を台覧中の殿下のお傍を途中から離れられて戻って来られたので、約15分もの間直接、御説明申し上げ、私の著書"まちづくり・ものづくりへの視座"他数点も献上申し上げた。
平成6(1994)年10月
 「国際ボランティア・フェスティバル御臨席のため御来盛の砌、紀宮様に"南部紫根絞染菊水文"着尺一巻献上の光栄に浴した。
平成8(1996)年10月
 皇太子同妃両殿下御来盛の砌、"南部紫根絞染・南部茜絞染どくだみ文クッション"一組献上の栄に浴した。

(1)南部紫根染研究所時代 大正5(1916)年〜昭和8(1933)年
(2)草紫堂主 独立後 昭和8(1933)年〜