中村省三編 『南部紫之由来』
盛岡・紫草園刊

昭和2年4月20日 発行 より抜粋


■岩手紫根と南部紫根

 岩手紫根の名称の起源は、詳ならずと雖も、鎌倉時代の文書中に己に、其の名称の存するを見れば蓋し其の年代の頗る古きを推知すべし。紫根は南部領内到る処多少之れを産出せざるの地なきも、岩手山を中心として其の周囲3・4里内外の地より産する所のものは其品質殊に佳良にして、(註:中でも岩手郡田頭産、現西根町田頭の紫根が日本一と評価されていた)、薬用としても染料としても最も優良なものとして古来珍重せられたるを以て、自ら南部領内所産の紫根を以て、概して岩手紫根と称するに至りたるものならんか。左に池野藤兵衛氏の所蔵にかゝる鎌倉時代の文書の断片を掲ぐべし。
 本項引用する所の文書及び事実中其の出所を掲げざるものは概ね鍵屋日記(註:江戸時代)より摘録する所なり。

   紫三切    同年10月19日
   紫二切  徳治2年10月19日

【中略】

半分11切分に『岩手根紫(註:イワテネムラサキ)』漆斗升自惣領可被下行之処云々

【以下略】

 文書の始めの行、同年とあるは、想うに嘉元4年なるべし。是に由りて之を考うるに、古は此の地方所産の紫根は『岩手根紫』と云う名にて世に弘まりたるは明かな事実なるが、其の『南部紫』と称するようなれるは、蓋し南部氏が盛岡に城を築きて諸制度を布きたる後、即ち徳川時代に至りて後の称呼なるべし。

【p.p.16-18】
■紫根染御用職人

 南部藩に於ける紫根染専門の御用染物師は、盛岡釶屋町に居住せる中野要助と云える者なり。此の者代々南部藩御用染物師にして、小納戸支配に属し、紫根染に於ては藩内之れに比肩する者なかりしかば、藩邸の使用料及幕府への貢献料、諸藩への贈物等は皆中野要助の染出したるものに限れることなりき。其の染法には特別の秘伝ありたる由なれども、我が家に伝はれるは唯其の概要にして、詳細のことに至りては、今は知る由なし。

【p.83】

■紫根染布帛問屋

 盛岡に於ける紫根染布帛問屋は唯我が家のみにて、其の世に知らるゝに至りしは全く南部藩庁の督励指導に由れり。その取り扱いたる紫根染は、上品のものは盛岡鉈屋町に居住する藩の御用染物師中野要助の染めたるものに限れり。我が家の要助に於ける関係は、我が家はしばしば藩の御用命を受くるの縁故あるにより特に藩の認許を得て之と特約を結び染色一切を之に委嘱せり。而して要助が我が家の需要に応ずる外は、決して他の注文に應ずることなかりしは勿論なり。是を以て旧藩時代は所謂糸治の紫根染と呼ばれ、その品質の優良なるは藩内第一と称せられ、大方の信用を得たりしよしなり。

【p.84】