草紫堂 堂主 藤田勉
賢治は大正4年4月盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学第二部(大正7年農芸化学科と改称)に入学、仝7年3月卒業後研究科に進み、9月迄賢治の故郷稗貫地方の土性調査に当っている(在籍は大正9年5月迄)。
賢治の在学中は丁度紫根染研究所の草創期に当って居り、県は紫根染をはじめ、石灰石、硫黄等の鉱物資源、農林、畜産資源等の産業化を目指したさまざまな研究を高等農林に依頼している。土性調査のスタッフの中に戦後盛岡市長になられた、当時助教授の小泉多三郎先生も居られ、先生は後に紫根の栽培実験をされていたと父から聞いている。賢治はこれ等先生方の御苦心を身近かに感じながら学生生活を送ったわけだが、花巻の農学校に奉職した頃、大正11年3月、平和記念東京博覧会に紫根染が初めて入賞し褒状を受賞、貞明皇后陛下からお褒めのお言葉を戴き、お買上げ戴いたという報道を新聞紙上で読み、又県産品が、北海道、沖縄の特別館を除く入賞率及び売店の販売高で、共に全国第二位の成績を収めたことを知り(岩手日報及び岩手毎日新聞 大正11年8月2日付)、その感動をこの作品の中に込めたのではないかと思はれる。
当時の賢治には「精神歌」、”春と修羅”の巻頭を飾った詩「屈折率」や「くらかけの雪」「日輪と太市」、又妹トシさんの死を悼んだ「氷訣の朝」等の賢治文学を代表する様な作品を発表しているが、それ等の作品の中にあつて一味違ったこの作品は、その行間から賢治の感動が直に伝わって来る様な気がして、こゝに掲載させて戴いた次第である。