草紫堂 堂主 藤田勉
大正11(1922)年3月開催の平和記念東京博覧会で、母校の先生方が苦心して研究した成果の一つとして、紫根染が東都で高い評価を得、貞明皇后陛下のお買上げを頂いたこと(8月2日付岩手毎日新聞掲載)は、賢治にとっても一入の喜びであったと同時に、現在の安定した教師としての自分に少なからぬあせりを感じていたのではないでしょうか。ユートピアを目指し豊かな農民生活を願っていた賢治が、物語りの中で『アスパラガスやちしやのようなものが山野に自生する様にならないと産業もほんとうではありませんな』と山男に言わしているのは、賢治の偽らざる感懐ではなかったでしょうか。
その様なさ中、同じ年の11月最愛の妹トシさんを亡くしたことでその思いを一層募らせ、翌年1月には自作の作品の入った大きなトランクを持って上京し、原稿の売り込みに奔走しますが、思うような成果が得られぬまゝ帰花しております。
大正14(1925)年7月、草野心平氏主宰の”銅鑼”同人への勧誘を受け、仝年11月、校長が交代したのをキッカケに退職し翌1月には東京に出る決意をしますが、校内に短期農村指導者養成の国民高等学校が開設され、賢治はこゝで「農民芸術」を講義する事となります。その講義の中で、19世紀「ユートピア便り」のウィリアム・モリスの「有用な労働」、「労働者の喜び」論に大きな影響を受け(斉藤文一氏、”宮澤賢治の空中散歩−紫根染とユートピア”、酪農事情 1992 vol. 52 6月号より)、のちに発表した「農民芸術概論綱要」の中心的概念となった「世界が全体真実に幸福にならないうち一人の幸福はあり得ない」と伊藤清一氏のノートに残されています。
大正15(1967)年3月国民高等学校の卒業式が終ると同時に、花巻農学校を依願退職し、上京をあきらめ自らの理想実現のため一百姓としての道を歩き始めたのです。のちに賢治は「花巻農学校の4カ年は、わたくしにとって実に愉快な明るいものでありました」と回想しています。粗衣粗食に耐えながら、荒地を開墾したり、農民の肥料設計に応じたり、母校の恩師、関豊太郎先生の研究テーマであった、肥効もあり、土地改良剤としての炭酸石灰の宣伝販売に力を尽くすなど、体力を消耗しつくし、昭和8年9月37才の若さで遂に帰らぬ人となりました。「雨ニモマケズ」の詩は最大の賢治理解者であり、最愛の妹トシさんに捧げた祈りであると共に、自らに対する祈りと誓いではなかっただろうか、と思う次第です。
(学習研究社:昭和55年刊<人と文学シリーズ>『宮澤賢治』堀尾青史氏の年譜を参考にいたしました)