草紫堂 堂主 藤田勉
明治維新以後完全に絶えていた紫根染の再興を計り、岩手県染織試験場内に紫根染研究所が置かれ、父謙が主任技師としてその研究に取り組んだのは大正5(1916)年10月の事ですが、大正11(1922)年3月、初めての紫根と茜の染分けに成功した作品を平和記念東京博覧会に出品し、褒状を受賞しております。それが貞明皇后陛下のお目にとまり、御買上げの栄に浴しました。賢治の『紫紺染について』に出て来る東京大博覧会とはこの平和記念東京博覧会のことではないだろうかと思います。
賢治が盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農芸化学科に入学したのは大正4(1915)年の事でありますが、大正3(1914)年第一次世界大戦が勃発、資源輸入が困難となるに伴ない、国内資源の見直し運動が全国的に起こり、岩手県でも大正6年6月、臨時工業原料調査会が発足いたしました。賢治の高農時代の恩師の関豊太郎先生(地質学)、上村勝爾両教授(林学)も委員に依嘱されております。その一環として紫根染も取り挙げられ、その報告書の中で高農の竜清光(後、田畑と改む)教授が紫根染に関する詳しいレポートを書いて居られます。この様な環境の中で学生時代を過ごし、家業の質屋業を嫌って農民芸術の世界に入って行った賢治にとって、その成果の一つとしての紫根染の受賞は、一入の喜びではなかっただろうかと推測いたします。
一方父は大正13(1924)年、昭和天皇の皇太子時代、自らの作品献上のため社主の貴族院議員中村治兵衛氏と、赤坂の東宮御所の大奥まで参内する光栄に浴し、又昭和3(1928)年には盛岡地方で挙行された東北陸軍特別大演習の砌(みぎり)、物産展示場に展示してあった「紫根染・茜染クッション、一組」を、夜お宿舎に入られてから「今一度見てみたい」と仰せ出され、お買上げの栄を賜っております。更に昭和49(1974)年には父の最後の作品となった「植樹文絵羽着天」を謹製、香淳皇后陛下に献上申し上げる等、数々の栄に浴しております。
父謙の初めての作品が貞明皇后陛下から御嘉納戴いたことが、賢治に深い感動と影響を与えた紫根染を、もっと多くの方々に触れて戴きたく、又21世紀が日本の伝統文化にとっても、新たなる発展の年になることを祈っております。