隆盛を極めたかるたも、戦時中は中止を余儀なくされた。軍国主義のもと、「恋歌を読むのは柔弱」(*1)というのが理由であった。大日本かるた協会は、苦肉の策として「愛国百人一首」を用い、昭和18(1943)年春第1回愛国百人一首大会を橿原神宮で開催した。しかしこの第1回大会を限りに、会場も戦火に焼かれ、選手も霧散し、最後となってしまう。この時用いられた「愛国百人一首」とは、昭和17(1942)年11月に発表された愛国的和歌を百首集めたものである。東京日々新聞と大阪毎日新聞が、全国の読者に推薦させた明治以前の物故者の和歌の中から、佐佐木信綱、折口信夫、土屋文明ら12人の歌人が選択している。そこに収められた和歌も、
大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも 柿本人麻呂
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし日本魂 吉田松陰
岩が根も砕かざらめやもののふの国の為にと思い切る太刀 有村次郎左衛門
といった具合のものである。
かるたが戦後に復活したのは昭和21(1946)年12月1日、東京神田の西神田クラブに於いてであった(*2)。東京かるた会によって明治38(1905)年に第1回が開催されたこの大会は、これが112回目にあたる。また、同年には戦前から続く大日本かるた協会を母体として「日本かるた協会」が設立(伊藤秀吉会長)された。この日本かるた協会による最初のかるた大会は昭和23(1948)年1月に開催されている。
昭和27(1952)年、日本かるた協会によって、かるた日本一を決定する第1期名人戦が開催された。この時名人位を争ったのは、東日本かるた連盟所属の林栄木(明静会)と西日本かるた連盟所属の鈴山透(京都浅茅生会)であった。この時の名人戦は1月13日に芝の日本美術倶楽部で幕を明け、3試合を行なったのち、2月10日には近江神宮に場所を移して続けられた。結果は鈴山が4−0のストレートで圧倒的な強さを見せ、みごとに第1期の名人位を獲得したのである。
翌28(1953)年1月18日には再び林栄木を挑戦者としての第2期名人戦が開催される予定であったが、直前になって使用札をめぐり東西のかるた連盟に意見の対立が生じる。そもそも第1期名人戦を開催するに当たり、東京かるた会は新かなづかいで書かれた「新制かるた」の使用を主張し、従来通り歴史的かなづかいで書かれた「標準かるた」および「公定かるた」の使用を主張する西日本かるた連盟と真っ向から対立、結局東京かるた会が譲歩して「歴史的かるた」が使用されたという経緯があった。それが第2期名人戦において再燃したのである(*3)。結果として、第2期名人戦は中止となり、日本かるた協会も解散することになる。
その後昭和29(1954)年になって、仙台と京都を除く全国80余の団体は、新たに「全日本かるた協会」(伊藤秀吉会長)を結成する。一方、京都においては第1期名人の鈴山らによって「日本かるた院本院」が設立され、その後も協会とは距離を置きつつ現在にいたっている(*4)。
全日本かるた協会の主催による第1期名人戦は昭和30(1955)年1月15日・16日両日靖国神社において開催された。前年11月に全国8地区の代表選手による予選を行い、さらに東部日本代表決定戦、西部日本代表決定戦が行なわれた。こうして決まった東部日本代表正木一郎5段(白妙会/当時22歳)と西部日本代表鈴木俊夫7段(福岡白妙会/同45歳)の両者によって名人位は争われた。結果は正木が4−1で鈴木を破り、初代名人位を獲得した。正木は当時早稲田大学商学部の4年生。敗れた鈴木も「すっかり戦後派にやられました」と語ったが、若い世代による新しいかるた時代の幕開けであった。
正木は翌31年から9年連続で名人位を防衛、名人位6期目となった36(1961)年には最初の永世名人位の称号を受けている。昭和39(1964)年の挑戦者は奥田宏(白妙会、のち東会)であった。この時の対戦はもつれにもつれ3−3のタイスコアのまま、最終戦に突入。正木が辛うじて防衛に成功する。正木は試合後「こんな苦戦は初めて。来年はもっとがんばります。」と語っているが、この10度目の名人位を最後に勇退することとなる。10年連続名人位というのは、今以て破られていない記録である。
その正木の後を継いで名人となったのが松川英夫(東会)であった。40(1965)年名人戦で東日本代表の松川(当時21歳)は西日本代表の山下義(大阪暁会)を破って初めて名人位につくと、そのまま2期連続防衛。43(1968)年には田口忠夫(白妙会)に破れるも、45(1970)年に再度名人に返り咲く。結局59(1984)年までに通算9期名人位を務め、史上2人目の永世名人位を獲得する。
昭和60(1985)年、その松川を初の名人位挑戦で破ったのが、慶応義塾大学4年の種村貴史であった。経験がものを言う名人位戦において、初の名人戦挑戦で現役名人を倒したのは種村が初めてであった(その後西郷直樹も達成)。昭和から平成にかけて連続8期(通算9期)名人を務め、3代目の永世名人位を獲得している。正木、松川、種村といった各世代のスター選手を生み出しながら、かるたは新しい時代平成へと突入するのであった。
男尊女卑の傾向が著しかった戦前において、かるたは女性にとってもオフリミット(不許可)であった。「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」というのが当時の男性選手の言い分であったようである。ただ唯一の例外が、仙台の椿多摩子(仙台鵲会)で、当時3段を取得していた。しかし戦後になるとかるた人口も大きく増え、昭和30(1955)年当時の女性選手は1万人を数えたとのことである(*6)。
女性選手の最高位クイーン戦が始まったのは名人戦に遅れること2年、昭和32(1957)年であった。東日本代表の天野千恵子(仙台鵲会)と西日本代表森脇ゑん子(大阪暁会)との間で第1期クイーン位は争われ、3−1で天野が初代のクイーンとなった。天野は当時宮城学園高校3年の若干18歳であった。天野は翌年も同じ森脇の挑戦を退け、クイーン位を防衛。34(1959)年に大高悦子(白妙会)に破れクイーン位を失うものの、翌35(1960)年に再びクイーン位に返り咲き、通算3期クイーン位を勤める。
昭和30年代後半の女流かるた界をリードしたのは、小沢教子(白妙会)であった。昭和36(1961)年、天野を破ってクイーン位につくとそのまま連続4期クイーン位を務める。しかし無敗のまま、昭和39(1963)年には名人位を勇退した正木永世名人とともにクイーン位を辞退するのであった。
小沢に2度挑戦者として挑みながらも退けられてきたのが丹治(現・山下)迪子(仙台鵲会→大阪暁会)であったが、小沢引退後の40年代前半のクイーン戦はこの丹治と宮崎嘉江(福井渚会)、椿(現・平山)芙美子(仙台鵲会)の3人を中心として動いていたとの感がある。昭和40(1965)年のクイーン戦は、東日本代表の丹治と西日本代表の宮崎の対戦となった。接戦の末に3−2で丹治がクイーン位に就く。翌41(1966)年には、椿が挑戦者として丹治に挑むも、丹治は防衛に成功。同じ顔合わせとなった翌42(1967)年は、逆に椿が雪辱し新たなクイーンとなる。43(1968)年、今度は宮崎が椿を破ってクイーンとなり、そのまま3期務める。42年に元準名人の山下義と結婚した丹治は、45(1970)年から2年連続挑戦者となり、46(1971)年に宮崎を破って再びクイーン位を奪還することとなった。
昭和47(1972)年、クイーン戦に新たなヒロインが誕生することになる。山口県宇部女子高校3年、当時18歳の沖(現・今村)美智子(小野田、現伊勢原みちのく会)であった。沖は15歳当時の44年にも挑戦者としてクイーン戦に出場し、宮崎クイーンに敗れていたが、2度目の挑戦でついにクイーン位を獲得する。沖はその後、連続4期クイーンを務める。そして史上初の永世クイーン位獲得を目前とした51(1976)年。沖は、当時慶応大学4年であった吉田(現・金山)真樹子(慶応、現東京吉野会)に破れてしまう。
その51年のクイーン位挑戦者決定戦には、東日本代表の吉田と、西日本代表の堀沢(現・久保)久美子(小野田)の2人が出場していた。結果は吉田が堀沢を破り、そのまま本戦でも沖クイーンを破ってクイーン位についたのである。その翌年、挑戦者となったのがその際に敗れた堀沢であった。沖の母校・竜王中学の後輩にあたる堀沢は、クイーン位戦で吉田を破り、前年の雪辱を果たすと同時に、先輩沖の敵討をも果たしたのである。山口県小野田高校2年。17歳という年齢は、天野千恵子、沖美智子の18歳をも下回る史上最年少のクイーンであった。堀沢はその後昭和50年代を通じて無敵の強さを誇る。59(1984)年まで連続8期クイーンを務め、その間13連勝という記録を残した(平成13年、渡辺令恵が14連勝で更新)。昭和60(1985)年に引退すると、初代永世クイーン位の允許状が贈られた。
堀沢に代わって北野律子(九州→奈良)が連続3期クイーンを務める。63(1988)年に出産のためクイーン戦出場を辞退したが、この年にクイーン位を争ったのが、東日本代表渡辺令恵(横浜隼会)と西日本代表山崎みゆき(福井渚会)であった。山崎は19歳の58(1983)年に堀沢クイーンに挑み、0−2で敗れており、これが2度目のクイーン位挑戦。一方の渡辺はこれが初のクイーン戦出場である。結果は渡辺が勝利をあげている。東日本からクイーンが誕生したのは51(1976)年の吉田(現・金山)真樹子以来実に12年ぶりのことであった。この時対戦した二人はその後実に7度までクイーン位をかけて対戦することになるのである。両者3度目の対戦となった平成3(1991)年には、山崎がついに勝利し、念願のクイーン位を獲得する、しかし翌4(1992)年、渡辺がすぐに雪辱。その後山崎は3年連続を含む4回挑戦者として渡辺に挑んだが、再び勝つことはなかった。一方の渡辺は、現在まで連続9期、通算13期クイーンをつとめ、史上2人目の永世クイーンの称号を与えられている。
- *1
- 「朝日新聞」昭和30年1月58日「女のはな息」
- *2
- 「朝日新聞」昭和21年12月3日
- *3
- 「朝日新聞」昭和28年1月12日〜18日
- *4
- 「朝日新聞」平成10年11月18日夕刊「惜別」
- *5
- 「毎日新聞」昭和30年1月17日
- *6
- 「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」
名人位を連続5期もしくは通算7期、クイーン位を連続・通算問わず5期務めた選手には「永世位」の称号が与えられている。現在までに永世名人となった選手は、名人位を10期連続務めた正木一郎、通算9期務めた松川英夫、連続8期通算9期務めた種村貴史の3人がいる。永世クイーンには連続8期務めた久保(旧姓堀沢)久美子、10期連続を含む通算13期務めている渡辺令恵の2人がいる。いずれも各時代を彩った名選手であることは言うまでもない。今後どのような選手が彼らに続くであろうか。現在最も永世位に近いのが、連続3期名人位を務めている西郷直樹現名人である。また、4期連続クイーン位を務めた今村(旧姓沖)美智子も、最近のクイーン位予選では毎年上位に進出しており、今後復帰と同時に永世位を獲得する可能性を持っている。