大城屋)  岩手県かるた協会  盛岡かるた協会  三分の百首かるた協会  日本競技かるた史(2)

日本競技かるた史(1)

早稲田大学かるた会 滝沢 聰


著 者 滝沢 聰氏

(この論文は滝沢 聰氏のご厚意により、掲載を許可されました。)
1. はじめに
2. かるた前史
3. 「競技かるた」とは何か
4. 競技かるたの夜明け
5. 競技かるたの復興
6. 競技かるたの現状
7. かるたの思い出
8. まとめ

日本競技かるた史(2)へ 02.12.10.滝沢氏より連絡を頂きました。
   本稿に加筆訂正を加え内容的に発展させたものを、HP上で発表しています。

1. はじめに

 「百人一首」遊びは、日本人にとって馴染みの深いものといえよう。お正月に一家でかるたを楽しんだという記憶は、誰にでもあるのではないだろうか。その一方で、ルールに則った「競技かるた」が存在している。年1回滋賀県の近江神宮で行なわれる名人位・クイーン位の争奪戦は、NHKの衛星放送によって中継され、高い注目を集めている。この競技かるたというものの歴史は意外に浅く、黒岩涙香によってそのルールが整備されてから約100年にすぎないのである。以下本論においては明治時代に始められ、現在にまでいたる競技かるたの歴史の概要を述べていくことにしたい。

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2. かるた前史

 そもそも「かるた」とはいつ頃日本で生まれたのであろうか。優雅な遊びのイメージから、日本古来のものであると考えられがちであるが、16世紀半ば頃にポルトガル人によって日本にもたらされたと考えられている。現在のトランプに近いものであったと考えられるが、ポルトガル語でカードを意味する「CARTA」がそのまま日本語に充てられた。今日でも時折「歌留多」という表記が用いられているが、古くは「嘉留太」あるいは「骨牌」とも記述された。すぐに日本語として定着してしまったため、外来語であると気づかれないことも多く、土肥経平は安永4(1775)年の「春湊浪話」の中で「かるたとは軽板といふ言葉の略なるにや」と書いている(*1)。それ以外にも賽賭博の一種である「樗蒲(かりうち)」から出た言葉であるという説も見られる(*2)。
 慶長2(1597)年に土佐の長曽我部元親によって出された掟書には「博奕カルタ諸勝負令停止」とあるが、この時点で禁止令が出されるまでに武士の間で流行していたことから、おそらく鉄砲伝来と時をほぼ同じくして日本に入って来たのであろう。

*1
村井省三「日本のかるたの歴史」(「歌留多」昭和59年11月平凡社)
*2
石井茂二「小倉百人一首かるたの研究」大正6年8月富田文陽堂

 ポルトガルより伝来したカルタは、現在のトランプとは少々異なり、棍棒、刀剣、貨幣、聖杯の4種類の図柄の紋標に、1〜12までの数字が振られた計48枚から成っていた。やがて、天正年間(1572〜1592)には九州の三池において国産品が作られるようになり、それらは「天正かるた」と呼ばれるようになる。最初は貴族および武士の間で流行していたが、江戸時代に入ってからは次第に庶民の間に広まっていった。後には現在の花札に良く似た「めくり札」という遊び方が生まれ、賭博性を強めていく。江戸幕府は度々禁止令を出すが、効き目は無かったようである。

 さて、日本には平安時代から「貝覆い」という遊びがあった。一対のハマグリの貝殻は、その一対のみがぴったりとはまるという性質を利用した遊びで、貝殻の上下を分け、対になる貝殻を探して集めていくという遊びである。後にはその貝殻の内側に一対で完成する絵を書いた物が装飾品として現れた。一般的には「貝合せ」の名で知られているが、「貝合せ」とは本来、様々な貝に和歌を添えて優劣を競い合う別の遊びである。この「貝合せ」の様子は、「堤中納言物語」の中の「貝あはせ」に描かれている。
 やがて貝殻の上下に和歌の上の句と下の句とを書き、貝覆いの要領で合わせていく遊びが生まれ、その後天正かるたの流行と共に、カード形式を取り入れて、「歌かるた」が生まれたと考えられている。それらは最初「天正かるた」と区別するために「続松(ついまつ)」もしくは「歌貝」とも呼ばれたようであるが、やがて「歌かるた」の名で広まっていく。また、その遊び方も始めは「貝覆い」と同様に、上の句の書かれた札を取り出し、場に並べてある下の句の書かれた札と合わせて一首を作って取る遊びであった。今日のかるたと同様の遊び方をするようになったのは、元禄(1688〜1704)頃からである。現在のように上の句を読んで下の句の書かれた札を取るという遊び方が当時から盛んに行なわれたが、一部では現在北海道で行なわれているような下の句を読んで下の句の札を取るという遊び方も行なわれていたようである。
 歌かるたは和歌を覚えるための教育的な遊びとして流行し、そこに用いられる題材も、「古今和歌集」や「伊勢物語」「源氏物語」等の様々な歌集や物語から採られたが、中でも最も普及したものは「小倉百人一首」を用いたかるたであった。江戸時代中期以降はお正月の遊びとして定着していった。

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3. 「競技かるた」とは何か。

 「競技かるた」は、藤原定家によって選出された「小倉百人一首」の「歌かるた」札を使用して行なわれる競技である。現在競技かるたを行う団体としては社団法人「全日本かるた協会」があり、その傘下に全国約100の競技団体がある。競技人口は約10万人とも言われている。現行の競技規則である「競技規定」並びに「競技会規定」により、競技かるたとはどのようなものであるかを、簡単に述べてみたい。
 かるたと聞くと、大勢で札を囲んで、読み手が読んだ和歌の下の句の書かれた取り札を探す場面を想像されるかもしれない。これはいわゆる「お座敷かるた」あるいは「散らし取り」と呼ばれるゲームである。競技かるたは、大まかなルールはお座敷かるたと同じであるが、それを1対1で行ない、取った枚数で勝敗を争うのではなく、先に手元の札を無くした者が勝ちとなる点で異なっている。また、競技かるたの試合において使用されるのは、小倉百人一首の札100枚のうち50枚のみで、残りの札50枚は読み手によって読まれるものの、その場には存在せず、取られることのない「空札(からふだ)」となる。この空札があるために、その場に無い札を触るお手つきが発生し、競技の面白さが増すのである。

 実際の競技の進め方であるが、1対1の競技であるため、対戦者2人の他に、札の読み手(読手)が必要となってくる。名人戦等のタイトル戦であればこの他に審判・立会い・記録などが就くこともある。また、練習であれば、人数が足りない場合にテープ・CDを用いる場合もある。近年ではCD-ROMのソフトも販売されている。
 対戦相手が決まると、適当な間隔を取って向かいあって座る。取り札100枚を裏返しにして混ぜ、各自がそれぞれ25枚ずつ手元に取り、残りの札を箱に戻す。次に各自が25枚の札を横87センチ以内に3段に並べる。その際自分が並べた札のある陣を「自陣」、相手の陣を「敵陣」と呼ぶ。「自陣」と「敵陣」を囲んだ部分を「競技線」と呼んでいる。自陣に関しては各自が自由に並べることが許されているが、たいていの選手はどの札をどこに置くかを予め決めた「定位置」を持っている。自陣の競技線内であればどこに札を置いても構わないため、札を払いやすいように左右の端に札を分けて置くのが一般的である。
 選手が25枚の札を並べ終わると、続いて15分間の暗記時間が与えられる。この間に選手は場にある50枚の札の位置を暗記する。暗記開始後13分(試合開始2分前)たつと、素振りをすることが認められている。
 試合開始に先立って百人一首には無い和歌が「序歌」として読まれ、序歌の下の句が2回繰り返して読まれる。2度目の下の句の後、1秒空けて、1枚目の札の上の句だけが読まれる。選手は、読まれた札(出札)に直接触るか、他の札を用いてその札を競技線の外に出すかによって、札を取ることができる。実際の競技では、たいていの選手は札を1枚だけではなく、複数枚払い飛ばしているが、それは今述べたように、「札押し」が認められているからなのである。こうして、札が取られると、その札の下の句が読まれ、再び1秒空けて、次の札の上の句が読まれる。このようにして試合は進行していく。自陣にある札を取った場合、当然持ち札が減ることになる。また、敵陣の札を取った場合は、自陣より好きな札を一枚敵陣に送ることができ、同様に自陣の札が減ることになる。もし相手が、読まれた札の無い陣に触れた場合は、「お手つき」と言い、やはり札を一枚敵陣に送ることが可能である。このようにして、先に持ち札を無くした者が勝ちとなる。

 かるた競技において札を早く取るためには、上の句の何文字目までを聞けばその札が取れるかを覚えることが必要である。これを「決まり字」という。例えば、最初の1文字が読まれただけて取る事ができる札は「一字決まり」と言い、「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」の7種類ある。以下「二字決まり」「三字決まり」と数えて言って最も長いものは「六字決まり」札である。こうした「決まり字」は試合中常に一定と言うわけではない。札が読まれるに従って変化していく。例えば「い」で始まる札は、「いまはただ…」「いまこむと…」「いにしへの…」の3枚あるが、それぞれの決まり字は、「いまは」「いまこ」「いに」である。もし最初に「いまは」の札が読まれたとすると、「い」で始まる札は残り2枚になるわけであるから、「いまこ」の札は「いま」まで読まれれば取れるようになる。同様に「いに」が読まれると、「い」で始まる札は1枚だけであるから、「いまは」は「い」まで読まれると取れるように変化する。この決まり字の変化に気をつけていなければ、札を早く取ることはできない。また、何が読まれたかを正確に記憶しておかなければ、思わぬお手つきをする恐れがある。

 次に百人一首にない「序歌」について簡単に述べておきたい。現在全日本かるた協会では、序歌を、

難波津に咲くやこの花冬籠もり今を春辺と咲くやこの花
と定めている。これは「古今和歌集」の「仮名序」に挙げられる和歌である。古くは、序歌は必ずしも一定ではなく、百人一首の中の一首を詠み人の名前から読み出したり、あるいは他の和歌を用いたりしている。明治37年の東京かるた会創立以来の名読手として知られる山田均は、国歌「君が代」を好んで用いていた(*1)。
君が代は千代に八千代にさざれ石のいはほとなりて苔のむすまで
また、
年をへて花の鏡となる水は散りかかるをや曇るといふらん
みよしのの山の白雪積るらじふる里寒くなりまさるなり
先づ始め空一つよむ注意せよ人に取られずあざやかに取れ
などの和歌も用いられていた。現在でも、九州の大宰府天満宮で開催される大会に限り、菅原道真にちなんだ
東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ
の歌が用いられている。

*1
笹原史歌「標準かるた必勝法」(大正8年11月 東京京橋堂)

 競技かるたには段位が制定されており、初段から10段までが定められている。現在の有段者は約1000人である。また、北は岩手県から南は鹿児島県まで全国で年間約50開催されている競技大会は、通常A級からE級までの各階級別に分かれて行なわれる。階級と段位の関係は、4段以上がA級、2・3段がB級、初段がC級であり、その他に無段者の部であるD級と、初心者の部であるE級がある。競技を始めた選手は、通常大会のE級から出場することになるが、練習状況や実力によってはいきなりD級から出場する場合もある。大会は通常卜ーナメント形式で、4位の資格(ベスト8)以上を入賞とする。D級で3位(ベスト4)以上となった場合は、初段の資格を得てC級に昇級することができる。同様にC級3位以上で2段の資格を得てB級に昇級できる。B級の場合は他の級と異なり、3位以上で3段の資格を得ることができるものの、4段を得てA級に昇級するためには優勝するか、準優勝を2回しなくてはならない。4段以上の選手はすべてA級で大会に出場することになるが、A級選手は、各タイトル戦への出場の権利が与えられる。タイトル戦は現在名人位・クイーン位、選手権大会、各大会のA級入賞者のみが出場できる選抜大会の3つがある。中でも名人戦・クイーン戦はかるた競技最大のタイトルとして毎年1月に近江神宮において開催されている。近江神宮には百人一首の第1首目、

秋の田の刈り穂の庵の苫を荒みわが衣手は露に濡れつつ
の作者である天智天皇が祭られている。

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4. 競技かるたの夜明け

 十畳の客間と八畳の中の間とを打抜きて、広間の十個処に真鍮の燭台を据ゑ、五十目掛の蝋燭は沖の漁火の如く燃えたるに、間毎の天井に白銀鍍の空気ラムプを点したれば、四辺は真昼より明に、人顔も眩きまでに輝き遍れり。三十人に余んぬる若き男女は二分に輪作りて、今を盛と歌留多遊びを為るなりけり。

 尾崎紅葉のベストセラー小説「金色夜叉」(明治30〜35年連載、未完)の中には明治当時のかるた会の模様が述べられている。娯楽の少なかった当時、かるたというのは格好の男女の出会いの場であったと想像される。実際、現クイーン渡辺令恵の祖父母も、昭和5(1930)年頃ではあるが、かるたが縁で出会ったとのことである(*1)。当時のかるたの試合は、今日で言う所のちらし取り、あるいは2組に分かれての源平戦が主流であった。「金色夜叉」に描かれたかるたの試合は、どうやら源平戦であったのではなかろうか。

 東京に初めてかるた会が設立されたのは日清戦争以前の明治25,6(1892,3)年頃であったと思われ、本郷の東京帝国大学内に医学部の生徒によって緑倶楽部と弥生倶楽部が誕生した。緑会は、明治35(1902)年に、それまでお座敷かるた中心であったかるた競技を、トーナメント化した競技会を開催している。この時の競技は、敵味方5人ずつの選手が各自10枚ずつの札を用いて争う源平戦形式で、読手の他に審判が置かれていた。また同年、緑倶楽部の選手のうち大学卒業者により芝に緑廼会が成立したのを皮切りに、麹町の小倉会、次いで青葉会。早稲田の和泉倶楽部、牛込の歌狂倶楽部(後の東会)等が次々と誕生している。その後に合併、解散した会も含め明治38(1905)年までに大小35の団体が出現した(*2)とのことである。「国民新聞」はその模様を「かるた界の群雄割拠時代」(*3)と称しているが、中でも小倉会、和泉倶楽部、紅葉会、東会の4つが大きな力を持っていた。
 明治36(1903)年3月頃、九段の遠州屋にて歌狂倶楽部と歌仙倶楽部が初めて他流試合を行い、歌狂倶楽部が辛勝したと伝えられる。こうした他流試合はその後盛んになるものの、会同士の感情を害することになるとの理由ですぐに中止されている。しかし同年12月には、緑廼会の主催で外神田福田屋において最初の競技会が開催された。これがどのような大会であったのかはよくわからない。しかし緑廼会の田村・野田医学士、歌狂倶楽部の山田、芝紅葉会の福原といった顔触れにメダルが送られたと記録されている。
 この頃のかるた競技に統一したルールは存在せず、競技方法は各会によってまちまちであった。明治期のジャーナリスト黒岩涙香は、競技方法の統一を図るために、明治37(1904)年2月東京かるた会を結成。自らが主催する新聞「萬朝報」に広告(資料)を出して選手を募ると、同年2月11日に日本橋常磐木倶楽部において第1回のかるた大会を開催した。

(資料)「萬朝報」明治37年2月10日広告

  小倉百人一首 かるた会 会費三十銭晩餐呈弁当
明十一日。日本橋萬町常盤木倶楽部に開く。

正午開場。一時開会。同好の方々男女御誘合され御来会被下度候。
当日朝報杜遊戯部の考案になる新式の最も公平なる歌留多を用ひ秀技
者には金牌其他の賞品を贈り候(時刻を後れて来会さるゝ方は或は加
入致し難きやも計り難きに付き成る可く早刻に御出下され度候。)
    東京かるた会 発起人 謹言

 翌明治38(1905)年1月1日、黒岩は「萬朝報」紙に3面に渡る「小倉百人一首かるた早取り秘伝」を掲載している。同記事及び「東京かるた会競技規定」(*4)によれば、黒岩の提唱した「最も公平なる歌留多」は、現在の競技かるたの基底となるものであった。例えば、それ以前のかるた競技において、かるたの札の並べ方は2段から4段まで各自でまちまちであったが、黒岩は行儀上それを3段に並べることで統一している。また、現在のように各自が25枚ずつの札を持って競技をするというのも、東京かるた会によって始められた。その一方で、当時の競技方法と現在の方法とでは異なる部分もある。当時は「札に早く手の触れたる者を以て其札を取りたるものとす」(東京かるた会競技規定第10条)とあるように、札押しによる取りを認めていなかった。また、「札を取る手は二本の指(中指、人差し指)」(同9条)と定められ、札に直接触れたかどうか明らかでない場合は「審判委員は無効を宣告」(同13条)とある。現在のかるたに比べれば幾分か優雅なものであったように思われる。
 また、東京かるた会のもう一つの大きな功績として、「標準かるた」を考案したことがあげられる。「標準かるた」は、すべて平仮名の同形活字を用いて印刷されたものである。それ以前には色紙模様の上に草書で書かれた「文学的かるた」が使用されており、その札を見慣れているかどうかが勝敗を左右するような状況であった。そのため「標準かるた」は大いに普及することとなる。その後大正14(1924)年には微妙に改定された「公定かるた」が生み出されている。

 さて東京かるた会によって明治37(1904)年2月11日に開催された第1回のかるた大会には、東京府内の会はもとより、横須賀、静岡からも参加者があった。優勝したのは小倉会の高田信二で、萬朝報社よりメダルが授与された。東京かるた会は続いて同年7月にも麹町日枝神社にて第2回のかるた大会を開催。11月3日には「秋季競技会」が開催されている。これらの大会で優勝したのは麻布にあった村雨会の石川保蔵であった。彼は「かるた界における唯一の選手で、遺憾ながら現時のかるた界は、(石川)氏の右に出る者はまずないと云うて差し支えはなかろう」(国民新聞明治38年1月5日)と称される程の選手であり、当時のかるた界はこの石川打倒ということで盛り上がっていたと言える。明治38(1904)年1月5日の第4回かるた大会、続く2月11日の第5回大会において、石川は宇多良一(和泉倶楽部)、近藤懋(同)に相次いで敗れ「幾人の選手をして騒然たらしめた」(「遊楽雑誌」)とある。翌39(1905)年の7回大会では、石川は再び奮起し、近藤懋、松本(和泉倶楽部)との全勝対決の末に栄冠をつかんだのである。

 大正期に入ってから、かるたは全国的に盛んになっていった。大正2(1913)年には第1回全国かるた東京大会が東京かるた会主催で開催される。この大会は昭和13(1938)年には実に第100回を数えるに至っている。大正6(1918)年には第1回京都大会が、同8(1919)年には第1回神戸大会が、同14(1925)年には名古屋においても中京大会が開催されている。当時いかにかるたが盛んであったのか、例えば昭和5(1930)年だけでも50回以上の大会が開催されていることからそれがわかるであろう。そんな中、大正8(1920)年にかるた会の老舗東京白妙会が設立された。そして昭和9(1934)年に、かるたの全国統合を計って「大日本かるた協会」が発足。最初の会長には白妙会の伊藤秀吉が就任。のちの全日本かるた協会会長である。続いて昭和11(1936)年には段位が制定され、最高位の8段は当時最高の選手であった団野朗月、渡辺秀夫らに贈られた。その当時の他の段位に登録者は116名であった。団野朗月は現在のかるたの試合で行なわれている「払い手」を生み出した選手として知られている。

*1
渡辺令恵「競技かるたの魅力」(「百人一首の文化史」平成10年12月すずさわ書店)
*2
「遊楽雑誌」明治39年3月20日
*3
「国民新聞」明治38年1月4日・5日
*4
笹原史歌「標準かるた必勝法」(大正8年11月 東京京橋堂)所収
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5. 競技かるたの復興

 隆盛を極めたかるたも、戦時中は中止を余儀なくされた。軍国主義のもと、「恋歌を読むのは柔弱」(*1)というのが理由であった。大日本かるた協会は、苦肉の策として「愛国百人一首」を用い、昭和18(1943)年春第1回愛国百人一首大会を橿原神宮で開催した。しかしこの第1回大会を限りに、会場も戦火に焼かれ、選手も霧散し、最後となってしまう。この時用いられた「愛国百人一首」とは、昭和17(1942)年11月に発表された愛国的和歌を百首集めたものである。東京日々新聞と大阪毎日新聞が、全国の読者に推薦させた明治以前の物故者の和歌の中から、佐佐木信綱、折口信夫、土屋文明ら12人の歌人が選択している。そこに収められた和歌も、

大君は神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも     柿本人麻呂
身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし日本魂  吉田松陰
岩が根も砕かざらめやもののふの国の為にと思い切る太刀  有村次郎左衛門
といった具合のものである。
 かるたが戦後に復活したのは昭和21(1946)年12月1日、東京神田の西神田クラブに於いてであった(*2)。東京かるた会によって明治38(1905)年に第1回が開催されたこの大会は、これが112回目にあたる。また、同年には戦前から続く大日本かるた協会を母体として「日本かるた協会」が設立(伊藤秀吉会長)された。この日本かるた協会による最初のかるた大会は昭和23(1948)年1月に開催されている。

 昭和27(1952)年、日本かるた協会によって、かるた日本一を決定する第1期名人戦が開催された。この時名人位を争ったのは、東日本かるた連盟所属の林栄木(明静会)と西日本かるた連盟所属の鈴山透(京都浅茅生会)であった。この時の名人戦は1月13日に芝の日本美術倶楽部で幕を明け、3試合を行なったのち、2月10日には近江神宮に場所を移して続けられた。結果は鈴山が4−0のストレートで圧倒的な強さを見せ、みごとに第1期の名人位を獲得したのである。
 翌28(1953)年1月18日には再び林栄木を挑戦者としての第2期名人戦が開催される予定であったが、直前になって使用札をめぐり東西のかるた連盟に意見の対立が生じる。そもそも第1期名人戦を開催するに当たり、東京かるた会は新かなづかいで書かれた「新制かるた」の使用を主張し、従来通り歴史的かなづかいで書かれた「標準かるた」および「公定かるた」の使用を主張する西日本かるた連盟と真っ向から対立、結局東京かるた会が譲歩して「歴史的かるた」が使用されたという経緯があった。それが第2期名人戦において再燃したのである(*3)。結果として、第2期名人戦は中止となり、日本かるた協会も解散することになる。

 その後昭和29(1954)年になって、仙台と京都を除く全国80余の団体は、新たに「全日本かるた協会」(伊藤秀吉会長)を結成する。一方、京都においては第1期名人の鈴山らによって「日本かるた院本院」が設立され、その後も協会とは距離を置きつつ現在にいたっている(*4)。

 全日本かるた協会の主催による第1期名人戦は昭和30(1955)年1月15日・16日両日靖国神社において開催された。前年11月に全国8地区の代表選手による予選を行い、さらに東部日本代表決定戦、西部日本代表決定戦が行なわれた。こうして決まった東部日本代表正木一郎5段(白妙会/当時22歳)と西部日本代表鈴木俊夫7段(福岡白妙会/同45歳)の両者によって名人位は争われた。結果は正木が4−1で鈴木を破り、初代名人位を獲得した。正木は当時早稲田大学商学部の4年生。敗れた鈴木も「すっかり戦後派にやられました」と語ったが、若い世代による新しいかるた時代の幕開けであった。
 正木は翌31年から9年連続で名人位を防衛、名人位6期目となった36(1961)年には最初の永世名人位の称号を受けている。昭和39(1964)年の挑戦者は奥田宏(白妙会、のち東会)であった。この時の対戦はもつれにもつれ3−3のタイスコアのまま、最終戦に突入。正木が辛うじて防衛に成功する。正木は試合後「こんな苦戦は初めて。来年はもっとがんばります。」と語っているが、この10度目の名人位を最後に勇退することとなる。10年連続名人位というのは、今以て破られていない記録である。
 その正木の後を継いで名人となったのが松川英夫(東会)であった。40(1965)年名人戦で東日本代表の松川(当時21歳)は西日本代表の山下義(大阪暁会)を破って初めて名人位につくと、そのまま2期連続防衛。43(1968)年には田口忠夫(白妙会)に破れるも、45(1970)年に再度名人に返り咲く。結局59(1984)年までに通算9期名人位を務め、史上2人目の永世名人位を獲得する。
 昭和60(1985)年、その松川を初の名人位挑戦で破ったのが、慶応義塾大学4年の種村貴史であった。経験がものを言う名人位戦において、初の名人戦挑戦で現役名人を倒したのは種村が初めてであった(その後西郷直樹も達成)。昭和から平成にかけて連続8期(通算9期)名人を務め、3代目の永世名人位を獲得している。正木、松川、種村といった各世代のスター選手を生み出しながら、かるたは新しい時代平成へと突入するのであった。

 男尊女卑の傾向が著しかった戦前において、かるたは女性にとってもオフリミット(不許可)であった。「相手が女では、バカバカしくて本気になって取れン」というのが当時の男性選手の言い分であったようである。ただ唯一の例外が、仙台の椿多摩子(仙台鵲会)で、当時3段を取得していた。しかし戦後になるとかるた人口も大きく増え、昭和30(1955)年当時の女性選手は1万人を数えたとのことである(*6)。
 女性選手の最高位クイーン戦が始まったのは名人戦に遅れること2年、昭和32(1957)年であった。東日本代表の天野千恵子(仙台鵲会)と西日本代表森脇ゑん子(大阪暁会)との間で第1期クイーン位は争われ、3−1で天野が初代のクイーンとなった。天野は当時宮城学園高校3年の若干18歳であった。天野は翌年も同じ森脇の挑戦を退け、クイーン位を防衛。34(1959)年に大高悦子(白妙会)に破れクイーン位を失うものの、翌35(1960)年に再びクイーン位に返り咲き、通算3期クイーン位を勤める。
 昭和30年代後半の女流かるた界をリードしたのは、小沢教子(白妙会)であった。昭和36(1961)年、天野を破ってクイーン位につくとそのまま連続4期クイーン位を務める。しかし無敗のまま、昭和39(1963)年には名人位を勇退した正木永世名人とともにクイーン位を辞退するのであった。
 小沢に2度挑戦者として挑みながらも退けられてきたのが丹治(現・山下)迪子(仙台鵲会→大阪暁会)であったが、小沢引退後の40年代前半のクイーン戦はこの丹治と宮崎嘉江(福井渚会)、椿(現・平山)芙美子(仙台鵲会)の3人を中心として動いていたとの感がある。昭和40(1965)年のクイーン戦は、東日本代表の丹治と西日本代表の宮崎の対戦となった。接戦の末に3−2で丹治がクイーン位に就く。翌41(1966)年には、椿が挑戦者として丹治に挑むも、丹治は防衛に成功。同じ顔合わせとなった翌42(1967)年は、逆に椿が雪辱し新たなクイーンとなる。43(1968)年、今度は宮崎が椿を破ってクイーンとなり、そのまま3期務める。42年に元準名人の山下義と結婚した丹治は、45(1970)年から2年連続挑戦者となり、46(1971)年に宮崎を破って再びクイーン位を奪還することとなった。
 昭和47(1972)年、クイーン戦に新たなヒロインが誕生することになる。山口県宇部女子高校3年、当時18歳の沖(現・今村)美智子(小野田、現伊勢原みちのく会)であった。沖は15歳当時の44年にも挑戦者としてクイーン戦に出場し、宮崎クイーンに敗れていたが、2度目の挑戦でついにクイーン位を獲得する。沖はその後、連続4期クイーンを務める。そして史上初の永世クイーン位獲得を目前とした51(1976)年。沖は、当時慶応大学4年であった吉田(現・金山)真樹子(慶応、現東京吉野会)に破れてしまう。
 その51年のクイーン位挑戦者決定戦には、東日本代表の吉田と、西日本代表の堀沢(現・久保)久美子(小野田)の2人が出場していた。結果は吉田が堀沢を破り、そのまま本戦でも沖クイーンを破ってクイーン位についたのである。その翌年、挑戦者となったのがその際に敗れた堀沢であった。沖の母校・竜王中学の後輩にあたる堀沢は、クイーン位戦で吉田を破り、前年の雪辱を果たすと同時に、先輩沖の敵討をも果たしたのである。山口県小野田高校2年。17歳という年齢は、天野千恵子、沖美智子の18歳をも下回る史上最年少のクイーンであった。堀沢はその後昭和50年代を通じて無敵の強さを誇る。59(1984)年まで連続8期クイーンを務め、その間13連勝という記録を残した(平成13年、渡辺令恵が14連勝で更新)。昭和60(1985)年に引退すると、初代永世クイーン位の允許状が贈られた。
 堀沢に代わって北野律子(九州→奈良)が連続3期クイーンを務める。63(1988)年に出産のためクイーン戦出場を辞退したが、この年にクイーン位を争ったのが、東日本代表渡辺令恵(横浜隼会)と西日本代表山崎みゆき(福井渚会)であった。山崎は19歳の58(1983)年に堀沢クイーンに挑み、0−2で敗れており、これが2度目のクイーン位挑戦。一方の渡辺はこれが初のクイーン戦出場である。結果は渡辺が勝利をあげている。東日本からクイーンが誕生したのは51(1976)年の吉田(現・金山)真樹子以来実に12年ぶりのことであった。この時対戦した二人はその後実に7度までクイーン位をかけて対戦することになるのである。両者3度目の対戦となった平成3(1991)年には、山崎がついに勝利し、念願のクイーン位を獲得する、しかし翌4(1992)年、渡辺がすぐに雪辱。その後山崎は3年連続を含む4回挑戦者として渡辺に挑んだが、再び勝つことはなかった。一方の渡辺は、現在まで連続9期、通算13期クイーンをつとめ、史上2人目の永世クイーンの称号を与えられている。

*1
「朝日新聞」昭和30年1月58日「女のはな息」
*2
「朝日新聞」昭和21年12月3日
*3
「朝日新聞」昭和28年1月12日〜18日
*4
「朝日新聞」平成10年11月18日夕刊「惜別」
*5
「毎日新聞」昭和30年1月17日
*6
「朝日新聞」昭和30年1月5日「女のはな息」

 名人位を連続5期もしくは通算7期、クイーン位を連続・通算問わず5期務めた選手には「永世位」の称号が与えられている。現在までに永世名人となった選手は、名人位を10期連続務めた正木一郎、通算9期務めた松川英夫、連続8期通算9期務めた種村貴史の3人がいる。永世クイーンには連続8期務めた久保(旧姓堀沢)久美子、10期連続を含む通算13期務めている渡辺令恵の2人がいる。いずれも各時代を彩った名選手であることは言うまでもない。今後どのような選手が彼らに続くであろうか。現在最も永世位に近いのが、連続3期名人位を務めている西郷直樹現名人である。また、4期連続クイーン位を務めた今村(旧姓沖)美智子も、最近のクイーン位予選では毎年上位に進出しており、今後復帰と同時に永世位を獲得する可能性を持っている。

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6. 競技かるたの現状

 平成のかるた界は、大学かるた会が隆盛を極めた時代だと言える。そもそも最初のかるた会が結成されたのは明治25(1892)年頃東京帝国大学内においてであった(第1章参照)。また、その後早稲田にも会が存在したようである。黒岩涙香の「小倉百人一首かるた早取秘伝」(明治38年1月「萬朝報」)によれば、それ以前に早稲田と慶応のチャンピオンが試合をしたとの記述があり、当時大学生の間においてもかるたはかなり盛んであったことがわかる。
 学生を対象とした大会としては、昭和30(1955)年には仙台において始まった東日本学生選手権大会がある(昭和52年まで開催)。また、昭和44(1969)年からは学生選手権が始まり、金沢大の川瀬健男(金沢高砂会、のち19期名人)が優勝している。
 初代名人・正木一郎は早稲田大学商学部の出身(昭和31年卒業)であったが、その早稲田大学にかるた会が設立されたのは正木卒業後の昭和32(1957)年であった。それに先立って東京大学、慶応義塾大学にもかるた会が設立されているが、平成の大学かるた会を支えたのも、この3大学のかるた会であった。
 早大4年で初めて名人になった正木を始め、何人かの大学生選手がいたが、彼らの所属は一般の会であり、早稲田を始めとした当時の大学かるた会は、その一般会に大会でまったく歯がたたないのが実状であったという。
 昭和51(1976)年、初挑戦でみごとにクイーン位を獲得した吉田(現・金山)真樹子は、当時慶応大学の4年生。大学かるた会から初のクイーン誕生であったが、わずか1期で堀沢久美子に破れタイトルを失う。その後58(1983)年には国際基督教大学4年の吉井瑞江が沖美智子に挑戦するがやはり破れている。以来、現在にいたるまで大学かるた会からのクイーン位挑戦者は現われていない。昭和60(1985)年の東北学院大2年の渡辺(現・鎌田)さゆり(仙台鵲会)、平成9(1997)年の福岡大3年池田(現・中島)美穂子(九州)は共に大学生ではあったものの、所属は一般会であった。
 一方の名人戦においては、昭和30(1955)年に正木、昭和46,7(1971,2)年に遠藤健一(東北大/仙台鵲会)が大学生ながら名人位を獲得。敗れた側でも昭和46(1971)年の川瀬健男(金沢大/金沢高砂会→大垣むらさき会)、昭和52(1977)年の平田裕一(関西学院大/大阪暁会)がいる。しかしやはり彼らも所属は一般会であった。その後昭和60(1985)年に松川名人を破り名人位を獲得したのが、慶応義塾大学4年の種村貴史であった。大学卒業後も慶応かるた会にとどまった種村は、翌61(1986)年には同じ慶応の1年先輩にして当時大学院生であった牧野守邦を相手に名人位を初防衛。翌62(1987)年と平成3(1991)年には後輩である望月仁弘から名人位を守っている。種村は平成4(1992)年まで連続8期名人位を務め、正木一郎に次ぐ史上2人目の永世名人に就任し、牧野、望月らと共に慶応の黄金時代を築いていく。
 種村は平成5(1993)年、平田裕一(大阪暁会)に敗れ名人位を失うが、その2年後に再び返り咲きに成功する(通算9期目)。平成8(1996)年の名人戦は、3度目の顔合わせとなる種村名人と望月挑戦者の慶応の先輩後輩によって争われた。結果は望月が3−0のストレートで種村を初めて下し、念願の名人に就いた。

 一方、慶応のライバル早稲田はどうであったのか。現在でも、野球を始めとして各種の早慶戦は異常なほどの盛り上がりを見せるが、かるたにおいてもそれは例外ではない。平成元(1989)年の名人戦は、昭和天皇崩御により、従来の1月ではなく4月に行なわれたが、この時史上初めて早慶両校のOBによって名人位が争われたのである。種村名人に挑戦したのは、早稲田大学法学部出身の石沢直樹(早大かるた会、現大津あきのた会)であった。結果は、種村が3−0のストレートで石沢を破り、名人戦史上初の早慶戦は慶応に軍配が上がった。その後、早稲田からの名人戦挑戦は、平成10(1998)年まで待たなくてはならない。
 その間の平成9(1997)年、東大から初の名人位挑戦者が現れた。昭和30年代に一度会が結成されるもの、その後長らく会自体が失われていた東京大学かるた会であったが、昭和58(1983)年、当時白妙会に所属していた金刺義行と、黒澤伸隆によって会が再興されている。それから約15年、当時経済学部3年、若干22歳の新川彰人が挑戦者として望月名人に挑んだのである。しかし、望月の強さには適わず、3−0のストレートで望月が初の防衛に成功する。
 翌10(1998)年は、今度は早稲田大学文学部卒業の田口貴志(横浜隼会)が、その望月に挑み、2度目の早慶による名人戦が実現した。囲い手を駆使する田口は、望月が苦手とする選手。しかし、結果は3−0で望月が勝ち、再び慶応に凱歌があがる。翌11(1999)年、早稲田大学教育学部2年の西郷直樹が挑戦者となり、2年連続の早慶の名人戦となった自第1、2戦は望月が連勝。名人位防衛に王手をかける。ところが、西郷はそこから奮起し、ついにそこから2連勝してタイに持ち込んだ。最終戦は疲れが見える望月に対し、西郷が9枚差で勝利し、新たな名人が誕生した。西郷は当時若干20歳、松川英夫の21歳を下回る史上最年少名人の誕生であった。翌平成12(2000)年は西郷に、早稲田大挙社会科学部出身の土田雅(福井渚会)が挑戦し、初の早稲田同士の名人戦となったが、西郷が3−0で初の防衛に成功している。

 このように平成のかるた界では大学かるた会出身の選手が大いに活躍を見せている。このように大学かるた会が隆盛を極める一つの契機となったものとして、昭和38(1963)年に始まった職域・学生かるた大会をあげることができるだろう。
 この職域・学生大会は、同じ職域・学校に所属する選手によって構成された5人チームによる団体戦形式で行なわれる大会である。団体戦は1対1の個人戦を複数組同時に行い、チームとしての勝敗を競うものである。職域・学生大会は、5人団体戦であるから、3人以上勝ったチームが勝ちを収めることになる。現在行なわれている職域・学生大会の前身となる職域大会は、昭和30(1955)年に第1回大会が光林寺において開催された。同大会は、昭和34(1959)年まで年2回ずつ、計8回開催され、当初は職域チームのみの参加であったが、その後学生のチームも出場を認められるようになる。当時の最強チームは正木一郎名人(当時)の所属していた総理府統計局であった。
 現在の職域・学生大会は、昭和38(1963)年に12チームの参加で始まり、春と夏の年2回ずつ開催されている。現在はA級を筆頭にE級まで、約50チームが参加(同一団体から複数チームの参加あり)している。時代において多少の変遷があるものの、参考までに現在の同大会の試合方法について説明しておきたい。A級からD級までの4階級はそれぞれ8チームずつで、残りのチームはE級に所属する。また、初めて出場するチームもE級から出場することになる。各階級で上位2位までに入ったチームは次の大会で上の級に昇級することができ、同様に下位2チームが下の級に陥落することで各級のチームが入れ替わる。各級の8チームは、4チームずつ2つのブロックに分けられ、それぞれのブロックで内でリーグ形式の予選が3試合行なわれ、ブロック1位から4位までが決められる。次にフロック1位同士が優勝決定戦、2位同士が3位決定戦を行なう。ブロック3位および4位は陥落戦に進み、一方のブロック3位がもう一方のブロック4位と対戦し、5位から8位までが決められ、下位2チームが陥落する。このように各チームは1回の大会で計4試合行なうのである。
 さて、12チームの参加で行なわれた第1回大会の優勝は、職域チームの強豪を抑えて早稲田大学が飾った。早稲田大学はその後も第11回大会までに7回連続を含め計9回優勝するなど、初期の職域・学生大会をリードしていく。
 ここでも早稲田の強力なライバルとなったのが慶応義塾大学であった。昭和48(1973)年の第22回大会自慶応は後のクイーン吉田(現・金山)真樹子らを擁し、初優勝を遂げる。この時慶応は全20試合中、実に19勝を挙げるという堂々の勝ち振りであった。これは未だに破られない大記録である。その後も慶応は昭和52(1977)年の第29回大会までに計6回優勝し、最初の黄金時代を築くことになる。その後も早稲田と慶応は幾度となく熱戦を繰り広げ、2大巨頭として職域・学生大会に君臨していく。

 昭和61(1986)年の第45回大会から平成元(1989)年の第51回大会まで慶応は連続7回優勝。同年の第52回大会こそ早稲田が勝つものの、翌年は再び慶応が連勝し、慶応はライバル早稲田を押さえ第2の黄金時代を迎えていた。平成3(1991)年の第55回大会、早稲田はブロック予選において慶応を破り優勝を奪還すると、そのまま4回連続優勝し、今度は早稲田の黄金時代が始まる。その間に慶応は、次第に弱体化して、影響力を失っていった。
 その慶応と入れ替わって浮上してきたのは東京大学であった。東大は平成5(1993)年の第59回大会での初優勝の後しばらく優勝から遠ざかっていたが、平成7(1995)年には春夏連続優勝し、早稲田から覇権を奪い取ることに成功する。しかしその後早稲田は、現名人の西郷直樹の加入により再び力を取り戻し王座を奪い返した。
 現在の職域・学生大会は、その名称とは裏腹に、学生の大会となりつつある。職域チームの優勝は、昭和46(1971)年の第17回大会における総理府統計局を最後に現れていない。また、高校チームとしては昭和47(1972)年の第19回大会からの3大会連続を含め計10回優勝した富士高校(静岡県)がある。同校は昭和54(1979)年に始まった高校選手権大会の団体戦において10連覇を達成したかるた名門校である。また、平成9(1997)年には東京の暁星学園が当時王座にあった東京大学から優勝を奪い取り史上2校目の高校チームの優勝を実現した。

 以上見て来たように、職域・学生大会においてその覇権を握ってきたのは、早稲田と慶応、後には東大の3大学であったが、平成のかるた界はそのままこの3大学かるた会の時代であったと言うことが出来る。
 そのような中、大学生独自の大会を開催しようとの動きも現れた。やがてそれは平成6(1994)年に近江神宮で第1回大学選手権が開催されることで実現する。大学選手権は、3人チームによる団体戦と、大学代表1名の出場による個人戦からなり、第1回の団体戦は福岡大学が優勝している。

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7. かるたの思い出

 以上簡単ではあるが、現在にまで至るかるたの歴史について述べてきた。しかし、現在のかるた史は、私自身が選手として少なからず関わってきた生きた歴史でもある。最後に、ここまでの私自身のかるたの思い出について述べていきたい。

 私が競技かるたを始めたのは、平成6(1694)年、早稲田大学文学部2年生の時であった。それまで、私は生協学生委員会というイベントサークルに所属しており、その年の5月、大隈講堂において「ユニセフのためのチャリティーショー/早稲田の大道芸人たち」というイベントを企画していた。私はそのイベントにおいて情宣の責任者を務めていた。そのイベントにかるた会が参加してくれたのである。私は幼稚園の頃から、家で妹を相手に百人一首の遊びをしたりしていたので、かるたというものにも少なからず興味があった。そこで、これを機会にかるた会の練習を見学をしに行った。当時早稲田大学かるた会は、早稲田鶴巻町の天祖神社の和室で練習を行なっていた。
 のちに知ったことだが、私の母もかるたに興味があり、中学生の頃、東京東会の練習を見学に行ったことがあるそうである。最近祖母の家から当時の東会副会長・奥田宏氏の名刺が見つかり、現東会会長の松川英夫氏に見せたところ、とても懐かしがっていた。

 7月の夏合宿に参加し、本格的にかるたを始め、新学期からはかなり熱中するようになった。週4回の早稲田の練習だけでは飽き足らず、東京外国語大学の練習会などにも参加し、熱心に練習をしたものである。その後は、亜細亜大学や東大、東京東会や白妙会といった一般会にも足を運ぶようになる。
 初めて大会に出場したのは、9月の水沢大会(岩手県)であった。当時私はまだ初心者であったため、本来ならば、E級で大会に出場すべきであったが、水沢大会の参加資格はD級以上。そこで、少し冒険ではあったが、1つ上のD級で出場したのである。結果的に初勝利をそこで挙げることができ、結局そのままD級で大会に出場し続けることになる。翌平成7(1995)年2月の静岡大会でD級初入賞(4位)。大学3年になった8月の学生選手権で、3位入賞してC級に昇級する。
 C級デビューは9月の水沢大会であった。初のC級ということで、あまり昇級は意識していなかったものの、気づけば決勝まで進んでいた。決勝では早稲田の2年後輩の林正樹君に敗れたものの、堂々の準優勝でB級に昇級することができた。
 B級では12月の椿雄太郎杯と翌平成8(1996)年3月の松山大会で3位に入賞し3段の資格を得るものの、そこからあと一歩がなかなか超えられない。大学4年生になり卒業を目前にするとA級昇級に対して次第に焦りが感じられてきた。こうして迎えたのが9月の水沢大会であった。水沢大会は、私にとって初めて出場した大会であると同時に、C級で準優勝した相性の良い大会。私は優勝への思いを一際強く持って大会に臨んだ。順当に勝ち上がり、決勝の相手は東京大学の同級生・木下佳信君であった。東大の私の同期にあたる代は一種の黄金時代であった。同期の大半が早くにA級に昇級したばかりか、すでに何人かはA級優勝さえしていた。木下君はその同期最後のB級選手であり、A級への思いは私をはるかに上回っていたようである。結果は17枚という圧倒的大差で木下君が勝利をあげ、私のA級昇級は後に持ち越された。
 長いB級時代を終えたのは翌平成9(1997)年1月3目の大宰府大会でであった。直前の調子はよくなかったが、私にはなぜかA級になれるという自信というか確信があった。そしてそれを裏付けるかのように順調に勝ち進んでいく。気づくと準決勝まで進んでいた。A級昇級の条件はB級優勝もしくは、準優勝2回である。準決勝にはもう一人、早稲田の加藤智雄君が残っていた。加藤君は私より1年後輩であるが、2年からかるたを始めた私にとっては実質的に同期のような存在である。決勝まで進んだら、加藤君に譲って自分は棄権する…そう約束して準決勝に臨んだ。しかし、加藤君は対戦相手の早さに押されて敗退。私は決勝に進出しA級昇級を決めるものの、同じ相手に敗れて準優勝に終わった。自分が優勝できなかったことよりも、加藤君と揃って昇級できなかったことが悔しかった。だが、大学卒業を目前に、念願のA級に昇級できたことで大きな満足感も得た。

 まもなく大学を卒業し、私は社会人になった。A級に昇級した結果、大会では常に強豪選手と対戦するようになる。練習時間も学生時代に比べはるかに減り、もはや大会で勝つことは容易ではなくなった。だが、かるたをやめようと思ったことはない。今では長くかるたを続けていけるような選手でありたいと思っている。
 かるたを通じて出会えた多くの人たちがいる。かるたをやらなければ知り合うことはなかったであろう地方の人たち、年上や年下の人たち。今後も様々な出会いがあるだろう。選手としてはもはやこれ以上は望めないかもしれないが、かるたを続けていくことは決して無駄ではない。かるたは長年に渡って続けていくことが可能な競技である。このような素晴らしい趣味と出会えることができた自分は幸せである。今はかるたに「ありがとう」が言いたい。

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8. まとめ

 平成8(1996)年8月全日本かるた協会は、社団法人全日本かるた協会(新木敬治会長)として新たなスタートを切った。今やかるた協会は単なる任意団体から、社会的に認知される公益団体として変化を遂げようとしている。

 1年程前、選手として関わっていながらも、自分自身は競技かるたの歴史についてまったく知らないということに気づき、古い新聞等を調べ始めたのがこの論をまとめるに至ったきっかけである。小倉百人一首自体への世間の関心とは裏腹に、競技としてのかるたへの認知度は決して高いとは言えない。調べている間にも、その資料の乏しさから何度も壁に突き当たった。それだけに自分の行なっていることの意義を感じ、結局それがはげみとなってここまでまとめあげることができた。黒岩涙香がルールを整備してからもうすぐかるたは100年の節目を迎える。未熟なものではあるものの、拙稿が現在までを網羅したかるたの通年史としては最初のものであると自負している。
 個人の調査には当然ながら限界があった。そのため当初予想していたものとは随分異なったものにせざるを得なかった。資料不足から割愛した項目も1つや2つではない。この論はまだまだ未完成であって、今回題名を「日本競技かるた史(1)」としたのは、そのような理由による。今後も調査を続け、また別の機会に(2)、(3)を発表できればと思っている。
 全日本かるた協会は現在、その主な事業の一つとして、小倉百人一首かるた大会の開催及び支援、段位認定などと共に、かるたに関する調査・研究をその主な事業として掲げている。かるた協会自体も腰をあげたようである。今後の調査・研究によって新たな事実が明らかにされることを願ってやまない。

「競技かるた史(1)」 滝沢 聰
(実践学園中学・高等学校紀要 第19号 2001年3月より)


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