盛岡聖公会
盛岡聖公会 宣教100周年記念礼拝 説教

東北教区主教 ヨハネ 加藤博道

 盛岡聖公会の宣教100年を祝うこの良き日に、皆様と共にこの礼拝に与る恵みを心から感謝いたします。

 こちらにおられる村上主教様の翻訳で、2年前に教区として刊行しました『私たちの教会と信仰』(英国聖公会の教理委員会が1981年に出したレポートで、現代の聖公会神学の重要な文書)の中の一つの章に「物語」という言葉が出てきます。そこであの本の内容を汲み取りながら、「共同の信仰・経験・物語を生きる」という副題を、出版にあたり付けさせていただきました。

 キリスト教の教会というものは、ただそこに厳格な規律や規則があって、主教や司祭というものが、教師として「キリスト教の真理」を一方的に教え、信徒はそれを恭しく学ぶ、そして静かに礼拝を捧げる、という所ではない、少なくとも、そういうことだけをする所ではないと、私は思っています。まさに教会とは「共同の信仰と経験と、そして物語を生きる」場なのだと思うのです。

ただこの本の中でも言われていますが、「物語」という言葉は、従来は軽く見られてきました。「たんなる物語」「たんなるお話」と。しかし、ここで言われている「物語」は、それ以上の意味を持っていると言わなければなりません。
 なぜ、こうした最も知的な神学書の中でさえ、「物語」ということが言われるようになったのか、その背景、きっかけを少し考えてみたいと思います。

 もちろん、キリスト教的な物語と言うのは、どの時代にもあったでしょう。しかしとくに現代、あえてこの言葉が用いられるようになった、私の感じている「契機」とは次のようなものです。

 1960年代以降、一つは南米の貧しい人々の中で、ローマ・カトリックの神父、あるいは多くの修道者たちが働く中から生まれてきた「解放の神学」がありました。独裁軍事政権化の非常に抑圧された状況の中で、カトリックの神父たちは、農民や貧しい人々と共に聖書を読み始めます。それも一方的に教えを押し付ける読み方ではなく(それは体制側の教会がしていることでした)、貧しい人々の日々の経験、出来事に即しながら、そのことと聖書、あるいは主イエスの教えやなさったことが、どのように結びついているのかを、一緒に考え語り合うような読み方でした。そのことが絶望のふちにあった人々を、もう一度連帯させ、力づけていきます、結果としてその聖書の集会が「反政府的」な政治的行動と見られ、弾圧・迫害され、主教や司祭、修道者たちが虐殺されるということまで起こっていきます。しかし、もともとは政治的集会を目指したものではなく、自分たちの経験(その意味で物語)と、聖書の出来事(これも福音書の物語)を結びつけて読んでいく、そのようなまさに聖書を一緒に読むことが原点であったと言われています。

 ちょうど同じ時期、お隣の韓国で「民衆神学」という流れが起こっています。既存の大きな教会、立派な権威によって聳え立っている教会ではなく、やはり当時の韓国の軍事政権化の中で、貧しい人々、民主化を求める人々の声が注目されていきます。例えばソ・ナンドンという神学者の本に「二つの物語の合流」という言葉が出てきます。人々の現実の生活に基づく実際の経験、出来事(物語)と、聖書の物語、その二つの物語を併せ読んでいこうということです。とくに貧しい人々や、女性たち、それまで何らかの意味で抑圧されてきた人たちの声を聞く、ということ。その経験を聞くということは、キリスト教の無視できない側面となってきました。

 こうした南米や、韓国での民衆的なキリスト教の運動は、やはり結果としてかなり政治的だと非難されたり、教会の伝統的な立場から(例えばバチカンのような)からは厳しく警告されたりもします。しかしその中にあった契機、人々が自分の「物語」と、聖書の「物語」を合わせ読んでいくということは大切なことと受け止められ、だからこそ英国の教理委員会という、もっとも知的で冷静な立場の本においても、1980年代になって「物語」「経験」という言葉が、もはや無視できないものとなってきたのではないかと思っています。

 考えてみれば、主イエスご自身が、多くのことを「譬え」や「物語」で語っておられます。「サマリヤ人のたとえ」「放蕩息子のたとえ」、しかしそれぞれ立派な物語です。固い、答えが一つしかないような「教訓」ではなく、「あなたはそれをどう読むのか、そしてあなたはどう行動するのか」と問いかけることを可能にする物語です。
 面白いことに、私たちの働きに不可分の幼稚園の働きにおいても、「読み聞かせ」ということが、(昔からあったでしょうが)特に近年、その大切さが再認識されてきたのではないかと思います。幼稚園だけではなく、地域や図書館でも、物語を読み聞かせるということや、「お話の会」「朗読の会」等が盛んになってきています。一つの答えや教訓、倫理を押し付ける教え方ではなく、想像力を豊かにするような読み方、聞き方。それらはどこかで通じている気がしています。

 盛岡聖公会はこの100年間、「共同の信仰・経験・物語」を生きてこられました!! それは決して、聖職者の物語ではなく、聖職者も含めて、信徒の皆さん一人一人が、今、ここに集う方だけでない、100年間の聖職者も含めた−数えられない数の信徒の方々、まさに「天の全会衆」を含めた、皆さんの「物語」なんだと思います。どんなに豊かな物語があったことか。それは大きな歴史、主な出来事を辿った歴史書だけでは汲み尽すことの出来ない、多くの「ひだ」を持った物語なのだと思います。本当にいろいろな経験や、思いが重なって、今日の日を迎えているのだと思います。神様がその全てを御手の中に抱き、良いものとのとして祝され、そしてまた新たな一歩を踏み出す力を与えてくださることでしょう。

 今日の日の100年記念の大きな集いも、ただ大きなイヴェントということでなく、盛岡聖公会の皆様が、長い時間をかけ、心を合わせて、大変な手間をかけ、話し合いをしながら、一緒に準備をしたということによって、そこにまた新しいこの教会の共同の物語が生まれたのだと確信し、心よりお祝い申し上げます。

 そして、私は今まさに、改めて、この地において、また東北教区において、皆様お一人お一人がますます「自分の物語と聖書の物語」の語り部であっていただきたい、語り部となっていただきたいと願うのです。宮沢賢治の地であります。多くの民話と説話に溢れた東北の地であります。

 自分の人生はどういう人生なのか、そして自分の人生と、自分の信仰とは、どこでどう出会い、重なってきたのか、自分の物語とはまさに自分の現実の人生と経験、また「自分」個人だけではない「自分たちの物語」(それは聖書や教会の生活)もあります、その両方を併せ見詰めながら、語り伝えること。それこそが「宣教」でもありましょう。
 教会にご高齢の方が多くなったと、「私ももう高齢だから、お役に立つことは何も出来ない」と、おっしゃる必要はありません。「語り部」になってください。「昔のことを振り返る」と言う意味だけではありません。昔のこともあるでしょう、今のこともあるでしょう。
 自分の生涯を、自分の人生を、そして自分たちの信仰を、もし一人一人が語りだしたとしたら、東北教区の現役教役者は現在十人を切ったと悲観する必要もありません。東北教区だけでも、800人、900人、いやそれ以上の語り部がいるとしたら、この地は多くの人の証しの声で満ちることでしょう。そういう中からこそ、また希望を持って教会の働きを担いたいと願う人も現れてくることと思います。

 明日迎える、というよりも、今日すでにその中にあると言っていいでしょう「聖霊降臨日」の聖書、『使徒言行録』の聖霊降臨の場面で、ペトロは『ヨエル書』を引用しながら、このように叫びます。

  「わたしはすべての人に聖霊を注ぐ。 
   すると、あなたたちの息子と娘は預言し、
   若者は幻を見、老人は夢を見る。
   わたしの僕やはしためにも、
       そのときには、わたしの霊を注ぐ。
   すると、彼らは預言する」

 神様の恵みと祝福の中で、喜びをもって集い、賛美の礼拝を捧げ続け、そして一人一人も、教会の内で外で、自らの物語と聖書の物語を語り続ける教会であっていただきたいと祈り、また主のお守りをお祈りいたします。
 
    2008年5月10日 盛岡聖公会
                        主教 加藤博道
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